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月刊マガジン 2006年4月号 イチオシ倶楽部EXTRA 富野由悠季インタビュー:シャア専用ブログ
■月刊マガジン 2006年4月号 イチオシ倶楽部EXTRA 富野由悠季インタビュー
理解はできなくても目の前の現実を直視する‥‥
それが受け入れるということ
――時代を映すキャラクターたちとして、TV版のカミーユは当時言われた“キレやすい10代”として描かれていました。
劇場版のカミーユはそこに対抗する力を持ち得たのでしょうか?
そうです。それは「意思の力とか目的性を持ちましょう」ということではなくて「事態を避けて、ハナから斜交いに見る
なよ」ということです。
“新訳”のコアはどういうことかというと「周りの事象に取り込まれるのではなくて、その事象を自分がきちんと受け止
めていき、そういう現実を学習する・見つめる」ということなんです。そういう訓練をすることによって、それぞれの事
象・事件を体験した時に事態を突破できるのではないかと思ったんです。そしたら見事に“オールドタイプになるのか、
ニュータイプになるのか”ということが見えてくる「物語の完結」を手に入れることができたんです。
それから「ΖGU」(以下「U」)までで不満を持っているような旧ガンダム世代という視聴者もいるわけですが、僕の近
くのその世代の人たちに、まだ未完成の状態でともかく音がついた「ΖGV」(以下「V」)を見てもらいまして、一応、
合格点をいただきました。ただ一つだけ残念なのは「三部作にはなってないよね」という意見も返ってきました。その意
味もよくわかります。「第1部があって、「U」と「V」とで1本、全部で二部作だよね」と言われて自分のスキルを思い
知らされました。「V」が情報量が多くて、クライマックスが1時間40分続くというふうな見え方をしています。そういう
意味ではあまりほめられた映画構造ではないんです。この手の作品を見る人は「おおー!」って1時間40分力を入れて見て
られるんだけども、一般観客には「ちょっと疲れる」という映画になってしまったのがプロとしてとても悔しい。
――先程おっしゃいました“学習して受け入れていくカミーユ”。TV版ではその「受け入れる」ことにくじけてしまって
いますが、劇場版では「受け入れる」ことができたということですか?
全くそのとおりなんです。若いうちは「受け入れる」ということを「全部を認める」という理解を往々にしてしまうんで
すけれども、そうではないんです。「わからないものはわからないでほっといてかまわない。ただ、そういう事態があっ
たということだけはとりあえず認めなさい」ということです。
くじけるというのは、その事態があった瞬間に、のけぞって鬱に入っていく、自閉していくっていうことなんです。だか
らそうじゃなくて「うん、あった。だけどよくわからない。全部理解なんかできないよ」でいいんです。「全部理解する
必要はないけど見る」という、その姿勢を持って、それを自分の日常の中で維持することができれば、それが力として蓄
えられます。蓄えられると「V」のエンディングでカミーユが示すような未来をつくっていけるかもしれないんです。
――そのカミーユが念頭にあったということが、監督の中では今回の「Ζ」をつくる原動力だったのでしょうか?
もちろん、そうです。今回の企画をいただいた時には、正直ほんとにイヤだったんです。だけど、自分があの当時やろう
としたことをもう一度正確に見つめてみたら、「カミーユをもう一度再起させることはできる」っていうカンだけは働い
たんです。「だったらやる」って言って始めました。
実は、僕はこの“新訳”の仕事(=フィクションの中の現実と事象の整理)をやりきれなくて「おりる、やめる」と思っ
たことがあるんです。大きな節目が2回あって、その時には本気でこの仕事を放りだそうと思いました。
その時に歯止めになったのはやはり“現実”なんですよ。若い連中がスタジオに出入りし始めていて、結局この人たちも
この瞬間に仕事が消えるわけだし、チームも離散する、それを背負えるのか。背負えないんですよね。
だから、そういう現実があることに背中を押してもらうことになって「もうちょっと踏ん張れば見えるかもしれない」と
いうところから「やっぱりできるかも」というところへ“この現実”と直感的にある“カミーユのエンディング”を自分
の机の上に寄せていくという作業をやりました。
だから、鬱屈して思考停止状態になるというのは楽なんだけれども、そうならないでよかったなと思います。「これが現
実なんですよ」ということを、やっぱり若い人に見ていただきたいですね。
人は一生を輝き続けられるものじゃない
けど無残というわけでもない
――「V」から「逆襲のシャア」への目配せというのは‥‥。
そんなのは一切しません。それをやってしまえば、つくり手の都合の作品、予定調和の物語になってしまいます。その時
の現実をきちんと描いておけば「『逆襲のシャア』は成立する」というところに落ち着きます。作劇上の不都合はあるで
しょうけど、問題はそんなにないはずです。だから10年前と現在のバランスをとろうなんて考えちゃいけないんです。予
定調和の物語っていのはこれをやってるんです。むしろ、揺れ幅が広いのを、それを1人の人間と考えた時に「あいつは大
きい・小さい」という人物像が見えてくるだけで、現実でも全く同じなんです。おかげで「逆襲のシャア」のアムロとシ
ャアについては彼らの悲劇が見えるんです。
――そう見えてしまうのではという気がしてました。
彼らは学習してないから、結局オールドタイプとして死んでいかなくちゃいけないんです。だけど、1人の人間の揺れ幅と
しては、ひどい人生とは言わないけれども「歳を取るって過酷だな」というふうに見えてくるんです。若い時にはそこま
でのフィーリングは付けられなかったですが、今回の「Ζ」を置いたおかげで「逆襲のシャア」の、大河ドラマとしての
大きなうねりが見えてきたので、全然問題ないというふうに、言い切れるんです。
――“学習するカミーユ”というのが描けたとしたら、シャアとアムロって学習してないことになっちゃうんじゃないか
なって思ったんですが?
それでいいんじゃないんですか。でも、その2人がどうしようもない人間かというと違うんですよ。
天才と言われている人たちは一生、天才としての能力を発揮し得たのか。あるいは、たまたま「大発明をしてしまった」
「大発見をしてしまった」とか、1本だけ小説の大名作を書いて、その後、鳴かず飛ばずで終わるという人。そのほうがほ
とんどです。人生全部をヒーロー・ヒロインをやれるキャラクター・能力を人は持たされてないんじゃないかと僕は思い
ます。
それは敗北なのかというと敗北ではないんです。人間の一生を光り輝いていられるというのはそうそうあるわけはないん
だから、シャアとかアムロは無残なのかと言えば、僕は無残だとは思ってない。それぞれの間尺の中で頑張ったんですか
ら。ただ、光り輝ききれなかった哀感、それが人生だろうと思います。だから、そういうものを見て妥協するんじゃなく
て「オレは・私は死ぬまで光り輝いてみせる」という目線を持つ努力をすることを学習していただきたいなということな
んです。
シャアなんか特に、組織の長にまで立っていきながら、結局、広い人脈や組織をつくるというところまでいかなかったん
です。それではダメなんです。現実にも起こり得るような話を「ガンダム」の中に放り込んでいくことができたという意
味では、「ロボットもの」ってなめてると損するよという言い方もできます。
今回の「Ζ」の公開などで、初期のガンダム世代の人たち、つまり大人になって今、中堅になってるような人たちと会う
機会がすごく増えました。いやな言い方をしますけれども、出世する人、出世街道にのってる人というのはそういうもの
をやっぱり学習してますよね。だから申し訳ないけど、アニメファンが言ってる「ガンダムが好き」とか「ロボットが好
き」という方向性とは全然違うんです(笑)。20年前「Ζ」をつくる時に、シャアとアムロから入っていったら、肥大し
ていくヒーロー像をつくってしまうんです。若い世代が頑張るから、また新しいヒーローが生まれるかもしれない。だけ
ども20年前の世相でいった時に「こうまで映像世代でアニメ漬けになるヤツもいるのか」ということで「おまえら、この
ままアニメを見続けていたら死ぬぞ」というのを示すためにカミーユをつくったんです。
――成長していくという意味では、アムロとシャアというのはララァが死んだ時点で時間が止まっちゃってるんじゃない
かと。
そういうことはよくあります。女はその部分は全くわかってくれないんだけども、男はバカなんです。僕もそういう経験
がしっかりありますが、それを突破するためにロボットものに身を委ねたという気配もなきにしもあらずです。けれども、
そういう自分の心情を語ることをやっていくと私小説になってしまう。そうしないためにロボットものというジャンルに、
実感したものを全部入れてっていいんじゃないかと思えたんです。
本気を入れてほしい
“わからないこと”をわかる努力をしてほしい
アニメをつくるとかコミックを描くということで大事なことは、作家の、マンガ家の、ライターのホンネをどこかでわか
ってる人が書いたものが間違いなく作品としては面白いんであって、それを絵ヅラで済ました作品というのはなにをやっ
てもウソになるんです。そういう自覚が20代・30代に足りないんじゃないかなというのが気になるところですね。特にデ
ジタルワークを簡便に利用できるようになればなるほど好き勝手に物語をつくっているという気がします。
――まさに、実感します。
「Ζ」の今回の仕事でも、現場の人にわかってほしいことは「好き勝手にはつくれないんだよ。それだけじゃなくて、そ
の中にあなたがつくり手だったら本気を入れなさいよ」「一般のお客さんというのは絵ヅラだけでは絶対見てくれないよ。
面白がるところは絵ヅラではないからね」と。誤解を恐れずに言うなら、例外はあるんだけれども、絵の上手なマンガで
面白いのはほとんどない。つまり、話を見せるために走ってるから、本来1枚の絵にこだわっていられないはずなんです。
絵と物語の問題というのは見抜いてほしいですね。
――絵が下手であっても「なんでこんなにのめり込んで読めるんだろうな」というのはイコールお話ということですね?
そのお話も作り話が上手に組んであるだけじゃなくて、マンガ家が本気で、自己体験も含めて吐きだしてる部分があるん
です。あの程度名前が出たマンガ家で、初期作品を超えられないという人はたくさんいるわけでしょう。だから、それこ
そさっきの話で、50年傑作が書けたら大変なんですよ(笑)。
やっぱり人間の持ち物はそれほど多くはない。だけど、プロフェッショナルとしてコンスタントに維持するためにはどう
するかといった時には、結局学習しかないんですよ。どういう学習かというと、自分のわかることを学習していてはダメ
なんです。“わからないことをわかる努力をする”ということをしないといけないんです。
ネット検索の危険なとこは、わかることしか検索してないでしょう。わからないものを検索する技術を身につける、自分
のコアからアバウトに広がる部分を言葉や意識として持てるかという、それをしなくちゃいけない。違う能力・違うもの
と組み合わせていくとか、そういう回路を自分の中で持つ。だから、僕の場合には“異種格闘技”というのはとても大事
なことだというのが実感できました。自分が勉強しなくちゃいけないものはなにかということがわかるんです。
そういう意味で、“異種格闘技”、それから自分の地域性、自分がこういうふうにして大きくなってきたんだということ
を大事にしてあげて、知ったふうな発想のものじゃない物語をつくるということは本当に努力してほしいし、週刊とか月
刊レベルでいうマンガ雑誌のルックスには惑わされないようにして下さい(笑)。
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月刊マガジン 2005年12月号 イチオシ倶楽部EXTRA 富野由悠季インタビュー
逆算できる面白さが出てきた
――「恋人たち」というすごくストレートなタイトルでいこうと思われたのはなぜでしょう?
おっしゃられたとおり、ストレートにいきたいと思ったということです。普通のところにいく回路を見つけるという意識
はすごくしました。で、まとめていく作業の中で「こんなにカップルが出てきてたのか」とか「戦記ものではないんだよ
ね」というのが、自分でもビックリしたことでしたので。これだったら、簡単にいえばグランドオペラ形式にまとめられ
るだろうと考えて、「恋人たち」というサブタイトルをピックアップすることができたのです。
――観直して「こんなに恋人たちが出てた」というのは、当時は無意識に?
1年近いシリーズをもたせるためには、エピソードの積み重ねをせざるを得ないし、戦闘プロットものにはイヤでもなるか
らで、それを意識すると「ここまで人物の搦手を使っていた?」と、本当にビックリしたわけです。だって、1年もたせる
ために、半分はしょうがなくやってることです。その「しょうがなく」というマイナス思考があるために「こんな人間関
係を構築してた」という記憶が完全に抜け落ちていたんです。動機が嫌だったから、ほんとに十何年か忘れていたんです。
――大きい記憶として残っていそうですけどね。
物語を作ると言うことだけに集中していれば、当然そっちの記憶は残りますが、動機が今言ったようなものなので、そう
ではなかったんです。TVの「Ζ」は一番「嫌なものに対して、もっと嫌なものを上乗せして終わらせる」というシリーズ
構成にしましたので、その部分しか記憶がありません。ほんとに自分の中では記憶としては残したくなかったということ
があったので、ことごとく忘れましたね。
――一旦忘れてしまっていたということで、今回、作業するにあたって、客観的に見れたというのは?
むしろ驚きのほうが多くて、客観的に見れたということはないんです。コンテにしても、1作目をまとめてる時に、2作目、
3作目のことを、大雑把には把握する努力をするんですけども、あくまでも“大雑把”なんです。人間関係までは見ないま
まで、1作目をやりました。エンディングまでの全部の人間関係とか、ドラマ全部が見えてまとめると予定調和になっちゃ
うという問題があるからです。なるべくうしろを見ないようにという努力をしてはじめました。予定調和にしないために、
先を意識しないという作業を自分の中で一生懸命やっていくから、正直、面白かったですね。作品論で言ったらこれしか
なかったというところに期せずして来たという意味では、ほんとにいい経験させてもらいました。だから「ファースト」
の3部作とはちょっと違いますね。
――なるほど。
この間の夏休みにBS2で「ファースト」のスペシャルやっていただけたんで、僕も全部じゃないんですけど観て‥‥その時
には「恋人たち」の映像が全部頭に入ってたんで「『Ζ』を観る以前の印象と全然違う」と、ものすごくビックリしまし
た。一番の納得というのは、「『ガンダム』って映画6本で一つの作品なんだ」とものすごくよくわかったことです。
「Ζ」を観た上で「ファースト」を観た時、ものすごく面白かったんですよ。「『Ζ』に出てきたあいつらが、こんなに
も若々しくて、こんなにもビビッドで」と。それが「ファースト」だけで観てるときはわからなかったことでした。
――シリーズ全体で言うと、後に「逆襲のシャア」や小説の「閃光のハサウェイ」があって、それを頭に入れて観ると、一
部しか見えてない時と、俯瞰して見た時の面白さというのが違いますね。
キャラクターをその世代なりにつくっておくというところでの軸がブレてなければ「物語ってこうも何度も観られるもの
なんだ」と、ちょっとビックリしちゃいましたね。そこまで大観して作っていないわけです。だけど、軸をズラしていな
かったので、逆算できる面白さというのが出てきて、「作品づくりというのはこうか。これが肝か」というのを改めて教
えられたんです。
各キャラについて
――レコアが今回鮮明になったと思ったんですが、監督の女性観はどういうところにあるんですか?
これは女性観じゃないんですよ。男に対してと同じことでしかない。レコアのことで言えば「こういう女もいるよね」だ
けです。だけど、コミックとかアニメ関係の仕事をやってる人達のほとんどが「なんでレコアみたいなの出したんです
か」っていう(笑)。今回のスタッフの中にも、むしろレコアが好きだというのもいるので、「レコアが一番まっとうで
すよね。一番あれが当たり前の女で、他のはみんな作り物に近いんだけど」というような意見もあって、その意見が1部、
2部をまとめる上では決定的な武器になりました。鮮明になったというのはおっしゃるとおりで、実はキャラクターをもっ
とハッキリさせるために、新作の部分で、レコアのところの描写だけはいじってしまいました。レコアを押さえて、それ
こそアニメとコミック漬けになってるバカな男どもにわからせるためには、これはやらなくちゃいけない仕事だなと思っ
たのがありますね。「実は一番面白いし、楽しい人かもしれないんだよ」ということです。3部でシロッコのところに行っ
ちゃう女だから、作劇論だけでいえばその動機づけという‥‥「キスして」と言った時に、クワトロがサングラスしたま
まだったんで「もうこいつとはいやだ」って。シロッコのところへ行く決定的な動機づけというのは、あれなんです。
――なるほど!
一見、あんな小芝居でですけど、あれがなかったら、3部でのレコア、成立しませんからね。
――しかも一瞬ためらってる様子が‥‥シャアが「考えてる」という感じがする。
女の側から見た時だけじゃないんです。男から見ても、そんな素振りした女がいたら「もう、こいつなんか」というふう
にしたつもりです。あのシーンに関しては、コンテが出来上がった時に涙が出るくらいうれしかったもん(笑)それで自分
でもレコアのことがよくわかったしね。その後でシーンを直結して、メカに乗り込むパイロットである女が、シャアを見
てクククッて笑ってる。「私とキスする時にはサングラスはずさないくせにパイロットスーツ着たときにサングラスはず
して」と。それを「もういや!」じゃないんです。クククッて笑ってるだけで。で、ロングシーンでもあの笑い声入れた
んですよね。3部まで観れば、シロッコにというのも説明してないんだけども、レコアとシロッコの関係はわかるはずです。
――ファなんですが、2ではちょっと存在として薄く見えてしまった部分というのがあったんですけども、監督としては描
きづらい女の子とか?
いや、二つ理由があります。ファとカミーユの関係を描くというところに足を踏み入れちゃうと、他のこの手の作品とテ
イストが似てくるかもしれないからという理由が一つ。もう一つの理由はもっと大きくて、他の人物のことがあんまりに
もありすぎて構ってられない。「今、青臭いお前らなんか見てる暇ないよ」というのがあります(笑)それはサラまで含め
てのことです。カミーユ、ファに関しては、完全に伏線としての作動しかさせてません。
――フォウは?
フォウはもうあのままです。だから今、石つぶてがガンガン飛んできています(笑)「Ζ」が好きな人って、みんなフォウ
が好きなのね。だから「あれっきり?」とみんな怒っています。自分の中に記憶してあるフォウというものが、ものすご
く肥大化しているのでしょう。演出家としては、レコアのあの笑い声と同じくらいフォウに肩入れしてつくったカットが
あるんですよ。だけど誰もそれに気がついてくれない。新作の部分にちゃんと「『テレビではなかったよ』というのやっ
てるじゃない」というんだけども「あんなもんじゃない」ともうブウブウ(笑)。ブースターを発射してやるために‥‥っ
てあたりですね。僕にとっては、その後にフォウとカミーユの美しい絵が…1秒半しかないんですけど、それができたんで、
これもレコアの笑い声と同じで「ヤッター!」と思ったんですけど、そんなのフォウ・ファンにしてみたらないに等しい
ようです。
――(笑)
でも、ほんとにうれしいなと思います。そういうふうに思い込まれて、なおかつ最後まで観てくれるわけですから。最後
まで見た上で言ってるわけですよ。そういう意味では、一応、映画になってるのかなという気はしてます。
“ロボットもの”という舞台へのカウンター
――サラの声が池脇千鶴さん。いわゆる女優というフィールドで普段おやりになってる方については?
それに関しては、僕自身はこの10年間ハッキリ意識したことがあります。声優でも役者願望が強いという意識を持った人
を使うというのを第一義的にしてきましたので、僕の中では例外的なことではありません。サラの声はどうしようかなぁ
と思ってる時に、池脇さんの演技を見て、匂いが違うから、アニメライズされてないところが使えると思いました。あと
はやっていただけるかどうかという先方さんの都合の問題でした。
――なるほど。
僕にとっては、ほんとに申し訳ないですけれども、キャスティングって一兵器でしかないわけですから、それで新しいも
のを創る、としか考えません。「前そうだったからこうでいいじゃないか」という言い方で、回顧仕事にしたくないので
す。一見声優の立場に立つと過酷に思えるけど、芸能界論でいえば「20年前のが通用してたらおかしいよね」という感覚
があります。「アニメだから、顔を出さないんだから、まんまでいいじゃないか」と思ってるのでは、迂闊だと思います。
僕はアニメでも芸能界の一ジャンルの仕事であるべきだというふうに思っていますから。それが娯楽のあるべきもので、
年寄り仕事なんか見せられたって面白くないでしょう?
――「ロボットもの」という枠抜きの、正面切ってのラブストーリーって‥‥。
僕にはそれできないと思います。というのは、意識してロボットものの専門家になったわけですから、ロボットのような
スペクタクル的なアイテムを取り込んで絵をつくるということが上手になったおかげで、人物だけにカメラを下ろすとい
うスキルがかなり不得手だなと感じています。二人だけの恋愛映画というところには降りられないんじゃないかというの
が、この数年の再確認です。後ろ側にロボットの足が見えてて人物が芝居やってるみたいな絵がつくれちゃうヤツが、ロ
ボットなしになってというと「いけるかなぁ?」と感じています。
――難しいですか?
ただ、恋愛映画撮りたいなぁという夢はありますね。やっぱり物語の原点だから。恋愛映画を撮るというのは、結局、女
優を標的にするんでしょうね、監督は。すると「女優に興味が持てるか」というのは僕には自信がない。絵ざまとして女
優を置くことができても、「アップから、バストから、おヘソの穴もわかるように撮った?じゃ次」というのが僕。恋愛
映画は、そこにもう一度「じゃ、そのおヘソの形はどういうものか」と見てる目線がないといけないと思う。
――「恋人たち」を観て、もしロボットが出ない普通の恋愛だったらどうだったかなと思った部分はあります。
レコアだけをとり上げれば、そういう部分で可能性があるような気がしますね。でもやっぱりそれは違うんです。“ロボ
ットものという舞台”という、ものすごくハードなものがあるじゃないですか。それに対してハッキリ、カウンターを出
していかないと人物が見えなくなるという恐怖感があるから、あれが出てくるんです。片方がなくなっちゃったらどうな
のかというのは、僕にはわかりません。だから撮ってみたいともおもうんですけれども、自信ないなぁ(笑)。
――(笑)しみじみと、そんな‥‥。
とっても好きになるような役者さんが2人そろってくれれば‥‥ドラマとしてのね、その機会はなきにしも非ずなんだけれ
ども、あややは思いついても、もう1人、男の子のほうが、今、いると思えないんで‥‥。
――あややなのかぁ!(笑)
劇場版Ζまとめ職人さん、ありがとうございます。
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