06/03/27-23:10
Invitation 2006年4月号 富野由悠季インタビュー「映画というものが分かりかけてきました」:シャア専用ブログ
さまざまなタイプの観客に観てもらうために
劇場版「機動戦士Ζガンダム」三部作の制作に当たって、富野総監督の姿勢ははっきりしていた。劇映画を作るという一
点で迷いはなかったのだ。
「基本的に僕の場合は、劇映画という媒体の機能しか考えていません。映画とは基本的に大衆娯楽といわれてきたもので、
動く写真、動く絵を使うことができる便利な特性を持っています。そういうものを使って物語を作るというのはどういう
ことなのか? それだけを考えてきました。極端な言い方をしますと、みんなが観て分かる話を作っていくのが映画だと、
僕は思っています。例えば今回の『Ζ』のような20年前の旧作の絵を使いながらでも、そういう映画を構成することをや
ってみせることが僕のスタンスなんです。で、僕は『Ζ』三部作をそういった映像の原則にのっとって構成したつもりで
す。1カット1カットがどうであれ、100分くらいお客さんを映画館のシートに縛っておけるエンタテインメントにするには
どうしたらいいかということしか考えませんでした」
富野監督の考える劇映画とは、ずばり「劇を見せること」だという。
「劇とは情の繋がり、情の寸断、情の絡み合いで成立しているものです。またそういう劇でないと、観客という僕らと同
じ人間に理解できないんです。かっこいいモビルスーツの戦闘シーンを見せるのは本筋ではないんです。だから『Ζ』三
部作も、戦争映画やロボットアニメの視点でやったら、こうはまとまらなかったと思います。ガンダム・ファンやメカも
のやアニメが好きな人だけに見せたかったわけではなく、映画館に来る、いろんなタイプのお客さんに観てもらいたいと
思ったんです。そういうフックになるような映画を目指しました。実際、今回三部作にまとめるにあたって、本当に自分
が嫌いな作品だったという印象の作品の中身をもう一度見直したら、劇映画にするための最低限の要件は揃っていること
が見えました。テレビのロボットアニメだから……という視点で作っていたわけじゃなく、かなり本気で作っていること
が分かりました。その部分をピックアップし再構成して、全てをプレッシャーに感じるカミーユの足場をほんの半歩だけ
変えて、現実を受け止めていくという風にしていけば、ハッピーエンディングがありうると思ったんです。むしろ、こう
いう『Ζ』であったから、この作り替えの意味がすごく分かりやすい具体例として示すことができるとも思いました。現
実の人生はやり直しはききませんが、フィクションはありうるんです。こんな風に作り直せる機会というのは『Ζ』だか
らありえたのであって、ベースがなかったらできませんでした」
劇場版『Ζ』三部作は、究極のところ男と女の「劇」であり、第2部に『恋人たち』という副題がついたのも伊達ではない。
そして今回の第3部において改定されたラストも当然、その延長上の結果であった。
「どうして男の女の話をこうも鮮明に出したかというと、生かされている人類のオスとメスという関係性を描くしか、ガ
ンダムという強力なスペクタクル・アイテムを黙らす方法はないと思ったからです。最後にカミーユがファに抱きつくの
も、彼が生き抜いたところに、ファがいたからなんです。重要なのは、生き残った者の使命があるからです。全部を愛し
てはいないけど、本気で愛せる部分があるのなら、そこで落ち着くしかないだろうというのが現実です。実は、男性がほ
とんど見逃しているんですけど、女性は見逃さないカットがあるんです。宇宙服を着たままだから、大股開きでファがカ
ミーユに抱きついても猥雑に見えないだろうという計算があったのですが、でも女性はそれを見逃さないんです。最後は
よかったねと言ってくれるんです。見事だなと思いました。地球側の点描が入って、あのシーンでは予定調和のハッピー
エンドで終わってしまうと思えたので、そういう風に思わせないために考えついたのが、アーガマのクルーにファの口真
似をさせるシーンです。あのくらいのことをやらないと、カミーユとファのシーンが成立しないんです。第三者に彼ら二
人の関係性をきちんと公認させるシチュエーションを作ってあげないと、二人の関係は二人だけの狭いものになります。
情を取り出すということでも、交信プールをああいう風に使えて、劇空間が成立したということですね」
今とは異なる映像発想で新たな劇映画の地平へ
まさに作劇へのこだわり、生き物としての人物描写が鮮烈に弾ける一瞬であった。ただし、その生々しさを拒絶する観客
がいるかもしれない。
「今のコミックとかアニメ、コスプレ喫茶に埋没している世代にその気配を感じています。でもSEXというものは、バーチ
ャルな世界で内向的に愉しむものではなくて、日常のふれあいのレベルから体感して身につけていくものであるという公
認論をもっと教えてあげる必要があると思います。それが劇映画の劇、芝居という形をとって、観客という公衆の面前に
対して語らなくてはならないことだと思います」
劇場版『Ζ』三部作を通じて、富野監督の今後の方向性も垣間見える。映画監督として、新たな可能性の追求しようとす
る爽やかな野心がまぶしい。
「今回の仕事をやった上で、映画というものが自分なりに分かった部分があるんです。例えば宮崎駿というとんでもない
巨人がいて、彼の作品だけを観ている人たちはアニメのことしか考えていないと感じます。そうすると、デジタル・ワー
クがスタジオで市民権を持った今、実写映画も狂い始めているという感触を持っていますし、そのデジタル技術を駆使し
て作ったファンタジーまみれのだらしない映画の状況も見えてきます。一方『中国の小さなお針子』とか『みなさん、さ
ようなら』といった映画を観たときに思ったのはあれが本当の映画だということです。本来的かどうかは分からないけど、
僕にとってはこちらの方が映画的だと思いますし、自分もアニメ発で、ましてやロボット発で始めていったセンスや感覚
も少しはありますから、それらを一緒にした映画というものを観てみたいし、作りたいという気持ちもあります。つまり
映画が持つ映像媒体、映像作品としてのありようが今、世間に表れているようなものとは少し違う形で『ゴシップ』も
『恋におちたシェイクスピア』も『妖怪大戦争』も一緒にできるような、そういう作りのレベルで、なおかつみんなに喜
んでもらえる映画を作りたいと思うようになりました」
劇場版Ζまとめ職人さん、ありがとうございます。
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