05/11/15-23:46
ガンダムへの道 対談 富野由悠季×茂木健一郎「ニュータイプ、喪失と獲得」要約版:シャア専用ブログ
■ガンダムへの道 対談 富野由悠季×茂木健一郎「ニュータイプ、喪失と獲得」要約版
POPULAR SCIENCE 2005年9月号より
人類は宇宙に向かえるか?
茂木 ニュータイプとは、生活圏が宇宙まで広がったときに現れてくる新しい認知力を持ったタイプ。もとは19世紀末、
ロシアの神学者たちが無重力状態になると人類は次の状態にいくという考えを信じて、それがロシアのロケット
開発に影響を与えたという背景がある。やはり宇宙に行くことでニュータイプが生まれる可能性はあるのか?
富野 僕は歳をとったし、もともと学識がなかった人間であるというエクスキューズを先に言わせてもらう。ですが、
僕の中でのガンダムの総決算は2,3年前に出ている。僕は認識として、これまでずっと月軌道までの空間を想像し
て暮らせるかをシミュレーションしていたらしいが、その結果は「ありえない」ということだった。
無重力、宇宙の真空はなまじのものではなく、宇宙放射線に対しても、人間に耐久力があるのか確信が持てなく
なった。物理的な理論云々ではなく、物性の運動を考えたときに、我々は1Gなら1Gという重力を与えられた地球
という圧倒的な温室があってこそ生きてきた極めて特殊な存在だと思う。
茂木 トータルなエコロジーとして、廃棄物とか、食糧生産も含めて、放射線や無重力、真空というところで、生態系
維持は非常に厳しいということか?
富野 火星ぐらいまでの空間域での、300℃を超える温度差に耐えられるとは思えない。1つだけ、生命を持たない意識
体としての存在としてはあるかもしれないが、そういう自分を想像したくない。リアルに女性に触れたいわけだ
(笑)。実際に宇宙に行っている人たちは頑丈ですから、基準にならない。宇宙空間で暮らすということに関し
ては、僕のレベルでは極めて悲観的な見通しだ。
茂木 富野さんのお考えでは、スペースオペラものというか、宇宙空間に人類が進出してきてどうのこうのというスト
ーリー自体が、観念的なものだったということか?
富野 「それを誘導したお前が言うな」と言われるだろうが、これには異議申し立てはしない。ただ、エクスキューズ
を述べたのは、1950〜60年代のSFが底抜けにハッピーかロマンがある方向へ向かってしまうという、戦後の歴史
にのっとったところに生きた人間だからだ。それを根底から覆すには30年かかる。そのうえで「ありえない」と
いう結論に達したことを隠してはいけないと考えた。だから、太陽が膨張するまでの間、地球をきれいに使って
みせることが人類の命題だ。1万年単位で考えていかなくてはならないのに、このままだと1000年ももたない。こ
れが、説得力を持って誰も言えないんだ。
茂木 経済成長自体がそもそもヨーロッパの植民地化というところからスタートした。宇宙進出も結局植民地化で、自
分のテリトリーを守るのではなくて、外に出て行って開拓するという発想だ。
富野 しょせん、大航海時代と変わらない。中世の思想なり、コモンセンスなり、中世に培った人類の近代的な欲望の
表れだ。ガンダムは第2次世界大戦のおさらいをしているのだろうと言われるのも、まったくその通り。戦場が形
成され、敵と見方がぶつかり合うという前線が構築されない戦争を想定しないで描いている。部分的にゲリラ的
なものはあるけれども、戦場ありきの延長線上としてのゲリラ戦でしかなくて、テロにまではいっていない。け
れども、宇宙戦争に名を借りて考えていたときのシミュレーションは無駄ではなかった。というのは、逆算して
今のことが分かってきたからだ。
茂木 富野さんは、ある意味宇宙開発で起こりうることを全部シミュレートして見てしまった人だから。
富野 特別に勉強してきたわけではなく、世界を総括的に見なくてはいけないという訓練ををしてきたおかげで、手に
入れられたコモンセンスだ。だから、今の宇宙開発のように、どんな有能な人の集まりであっても組織論にはま
ってしまった状態ではダメだと言えるようになった。どこも体系を知らなくて組織を運営している。科学技術が
何に根ざしているのかが見えない。今はどこの組織も狭い専門職の集まりで、横との連携がとれず姿が見えてい
ないと感じる。
地球を100年、1000年維持するために
茂木 ところで、富野さん自身は、ガンダムオタクをどのように考えているのか?
富野 ものすごく簡単に言うと、困ったものだなと思っている(笑)。でも、これだけの広がりを見せているし、先日
もサントリーミュージアムの「ガンダム展」で2、3人のアーティストたちの作品に「ガンダムを出発点にして、
これだけの創作をし得る理念と技能があるのか」というものを見た。間違いなく生まれてくる次のガンダムがあ
るという意味で、世代交代や咀嚼力について絶望するつもりはない。あとは彼らがゴッホやミケランジェロに代
わり得るか。それには100年かかるかもしれませんが、こういう芽の出方も悪くない。気持ちのいい部分を見た。
問題なのは、我々が100年維持できるか。
茂木 現実的に地球が、という意味か?
富野 そう。でも、それは石油の埋蔵量などのエネルギー問題以前に、9.11以降のテロの問題、政治家たち、経済人た
ちの持っている国境という設定を、彼らは今後本気で乗り越えるだけの気力を持ち得るかが懐疑的ということ。
西暦前からある哲学や宗教も含めて、賞味期限を過ぎたから何とかしなくてはならないという意見がある。問題
なのは、実用に対応するようなハウ・ツーもの、マニュアル化できる文言にして一般社会に投げ与えるのに、ど
んなに早くても100年かかると思うこと。一過性のコモンセンスであっては困るわけだから。地球の物性的な耐久
性と合わせて考えると、右肩上がりの経済成長ばかりを追っていたら、終世的な思想でしかないと思う。
茂木 経済誌でも本来はゼロ成長が望ましいと言っている。アメリカの経済学者を出してきたり、ローマクラブの成長
限界レポートの新刊が出て、中国の発展によるエネルギーの枯渇などが具体的な危機として出てきている。
富野 だからといって科学技術の改革が意味のないことだとは思わない。まだかすかに希望を持っている。それしか現
状を突破することはできないからだ。自然が大切だと言っても、石器時代には戻れない。戻れなければどうする
かというところに科学の叡智を終結するしかない。最新技術が1000年変わらずに維持できるか、ということ。根
本的な芯をおさえている技術、例えば印刷技術は1000年変わらないですが、モーターとかハードとかに象徴され
る技術が続かない。
茂木 10年も持たない。本とか雑誌とかはどんどん溜まっていくけれども、資料性を保っているかというと確信は持て
ない。
富野 芸術作品についてもそう。なぜこの作品は100年、1000年持っているのかと考えたとき、美のありようとか、根本
的なところに触ってくるものだった。でもデータは、そのときの常識だったりするわけだ。必ずしも原理とか公
理ではない。ですから、古代からある哲学や宗教で残されている文言に代わるもっと根源的なものの考え方、コ
アになる言葉遣いを見つけることができれば、これから1000年持つような地球になるかもしれない。キリスト教、
イスラム教、仏教などずべての宗教を包括する、人が信じていいものの1つだ。
技術論に対しても同様で、例えば、電気そのものは自然界にあるもので、脳の働きでも、伝達しているものに電
流があると言われているから、今後も残っていく。ならば、それを日常的にエネルギーとして活用できるように
抽出すればいい。物性として利用する中で我々が生態を維持できるような形で、もっと有機的に合理的に自然界
から取り出せる方法を獲得すればいいだけのこと。原理を獲得しながら応用していく方法を見つけていく。僕は
獲得できると思う。
特に科学技術の中ではっきりしているのは、論議的に新しい技術を獲得するのではなく、絶えず飛躍がある。飛
躍のフィールドを見つけることは、残されていると思う。宇宙の存在を知っているからだ。いっぱい星々がある
ということの関係性として、無ではないということ。たかが1つの惑星に住んでいる多少知性のある生命体が1万
年とか2万年とか、10万年単位の時間を生かすだけのエネルギーを獲得することは難しいことではない、というと
ころにSFとしての可能性を見たい。
茂木 科学者にしても技術者にしても、とりあえず目の前にやるべきことがたくさんある。ナノテクだとかDNAだとか言
っても、これをやるとこうなっていくという過程でしかない。なぜ、アインシュタインがカリスマでありえたか
といえば、もっと突き詰めて考えていたから。このカリスマ性だが、昔人類が狩りをして移動するときに、なぜ
か分からないけれど、あの人についていこうと思える人がいたと考えている。それがカリスマだとすると、今
我々は移動しないけれど人類が進むべき道を読めることになる。すると1部分のテクノロジーに通じてるだけでな
く、人間とはどういう存在で、地球はどうなって、その中で我々はどの方向に進めばいいのかが、分かっている
人がカリスマなのだろう。
富野 手法の細分化や、細分化した技術を統合していくことが面白いのだろう。だから1人の科学者が一生をその分野に
かけていくのは了解している。カーボン技術を見ても底抜けの可能性を感じる。でも、それはナノサイエンスと
いう怖さであって、我々はナノにはなりえないのだから、平和に考える必要がある。平和な存在の我々が、哲理
はなんだろうかと考えたときに、見て触って使って心地よい、効率が少しよい、そういう美的なものであれば許
せるというところで落とし前をつけるしかない。一般市民の触れている技術は、こうありたいと思って試行錯誤
してるのではなく、経済効率論と企業間競争を生き延びるという以上の意味はないと思う。身の丈にあった技術
の行使であるのかと疑問だ。
カリスマには別の見解もあって、社会なり習俗を基本的に身に付けていて、その総意を見抜いている人たちだと
言われている。生活習慣や集団の持っているコモンセンスを承知したうえで、なおかつ集団が生きてゆく道を指
し示す人。資本主義経済の中の問題を悪いと言い続けているが、実は多くの人が同様に今の経済に異議申し立て
をしている。にもかかわらず、クーラーや液晶テレビは買い換えてもいいと思っている。この時点で愚民だし、
企業のオピニオンリーダーたちが思っているように、急進的にすべてのことが1つの機器で出来るところに人々が
行くとも思えない。
携帯の罪
茂木 科学が世界全体を引き受けるのをやめてからずいぶん経つと思うが、問題はなぜ科学が大きな力を失ったかで、
我々はそれをなんとかしようと抵抗している。
富野 それはよくわかる。理念を掲げるのはいいが、行うのは世間という下世話があるところでの行為が日常に還元さ
れてくるものだ。社会を形成する世間というものと整合性を持たせながら、世間の人たちの利便性、省エネ、生
き延びるためにどうしたらいいかという1番大切なテーゼをまだ設定することができないところで、資本主義だけ
が1等賞なわけで、効率だけが1等賞なわけだ。この中でしか社会を形成できない、国家を経営できないというと
ころまで来てしまっている。それ以上の言葉を持てないために、現実的な理念というものが今立っていないから
ではないだろうか。この理念とは、あくまでも志を持った学のことで、今は極めて観念的で現実と結びついてい
ない。そのことはデジタル時代と呼ばれているこの7、8年の瞬発性のある技術の結果を見せられて明らかになっ
た。この代表が携帯電話。携帯とネットを大衆と愚民に与えてしまった罪は大きい。携帯は1台100万円で売るべ
きだ。
茂木 NHKや日経新聞などのメディアで議論される経済は、本当にごく1部で、エコロジー以外にも産廃物の問題とかが
ある。それをトータルで引き受けていたのは実はサブカルチャーだと感じた。SF世界では以前からこうした問題
を扱っている。
富野 1960年代までのSFでは、産廃物の問題は扱っていなかった。まさに理想論だけ、夢だけを語っていたわけだ。そ
こで、60年代以降はこの点を高尚なSFが引き受けたのだが、ヒットした作品はない。あるとすればダークな世界
を描くものとして結局モンスターものが引き受けた。ですが、現実と対面するためのメディアメッセージとして
理解するセンスは下世話の中に発生しなかった。
茂木 おそらく携帯を利用すると、すべて無意識の世界に持ち込めてしまうことになるだろう。
富野 機能や性能をこれだけ高いものをタダでもらって、愚民は援助交際や出会い系に走ったわけだ。テレビの仕事を
始めたときから「コレおかしいぞ」と思ったことは、これだけ高度の技術をどうしてくだらないバラエティなど
で消費することを許しているのか、という人の行為の不思議さだった。アニメについても、そこに生きていなが
ら、同じ疑問や抵抗感を感じている。
またサブカルチャーだが、本当はカルチャーはカルチャーなんだから、サブなんていらない。例えば元禄時代の
傾奇者も女性が始めたお国歌舞伎が男性に転化して広がったもの。見え方はサブカルかもしれないが、100年、20
0年のスパンでみるとカルチャーだ。こう仕分けすると、本カルチャーは何があるのかと思う。またサブカルチャ
ーを認めるのではなく、サブカルチャーを本流にしなくてはいけないという心性を我々は自分の中で引き裂いて
きたのかもしれない。
茂木 進化の過程と同じだ。ある進化が止まったら、傍流が本流になるわけだから、まさにその通りなんだ。サブカル
チャーは建前を超えてしまうから、技術をとりまく人間のもろもろを入れることができる。
本来、携帯はさまざまな使い方ができるが、どうしても1部分しかスポットライトを浴びていない。トータルでみ
ないと技術的に語れないのだが。
富野 そして、バラエティ番組のように、これだけ高度な技術に根ざした媒体で傍系のものが主流になってしまう。で
もそれがなければ局が成り立たないし、代理店も食べていけないのかもしれない。なにより恐ろしいのは、面白
くなければ見ないという大衆がいる。大衆=愚民どもが支持したところに成立するという構造が実は1番危険なの
ではないかという考えが実は「ジーク・ジオン!」の考え方なんだ(笑)。
新説…ニュータイプ論
富野 地球上で100年生き延びるために、規制が現実的になってくる気がする。経済的な考え方をすると階層を生み出す
文化になっていくと考えている。以前、ブラジルを訪れたとき、富裕層と貧困層という経済格差があっても許さ
れている状況は、亜熱帯地域であり、大陸があるという良さがあるからだと感じた。裸で暮らせるし、そのへん
のものをかっぱらっても生きていけるから成立しうるのだろうと。でも今後は、日本以北の地域でも、同様に耐
乏を強いる時代になるだろう。100年後のことを考えたら、北朝鮮の方が正しく思えるかもしれない。
茂木 人類は宇宙に行かないということだが、地球でも生き延びるのが厳しい状況になるのなら、地球上でニュータイ
プは誕生しないものか?
富野 歴史をみたとき、こうした苛立ちや閉塞感のあるときに次の才能を生み出す。江戸時代でいえば、元禄時代や平
安時代までの貴族文化が極めて隆盛した時代といえるが、平和の御世がやってきたことは、生産性を向上させず
日本人の農耕民族の反自然的な暮らしをする、という言い方ができる。
平安時代は、武力を持たない公家が政治を見ていきながら、武家が台頭し、僧侶の勢力もあった。3すくみの状態
で300年間平和を維持してきたのだそうだ。また江戸時代も、もう少し近代的な政治体制にのっとって徳川幕府を
治めたと思われているが、実際は違うようだ。武闘派集団を黙らせることができたのは、仏教があって儒教があ
ったから。また徳川を頂点とした反幕体制があったからこそ、内乱のない250年を獲得した。だけど、人間は統治
だけでは暮らせない。農耕民族という反自然的な暮らしが必要なんだ。
栽培することは基本的に反自然的である。自然的というのは狩猟民族のこと。農耕を始め、八百万(やおよろ
ず)の神を祀り、あらゆるところに自分たちを助けてくれる神々を崇めてきた。祟りが政治的な力学を持った部
分があったのをなだめるために、仏教が入り、大乗仏教というシステムを取り入れて拝む。でも自然はそういう
ものではない。
信じることを作るためにもう1つ日本人がやってことが、いけばなやお茶、能とか庭。形式だ。永遠に満たされる
ことがない形式芸術に身をゆだねることができる、という病理だ。我々はそれを病理とせずに受け止めて、八百
万の神々に身を任せることが極めて自然的だと考えるおおらかさを手に入れて明治まで来た。この病理は、我々
は、このデジタル時代に別のカタチとして実行しているようだ。つまりバーチャル・リアリティだ。
茂木 地球環境が厳しくなるなかで生まれてくるニュータイプとは、オタクなのか?
富野 アニメのアートやメイドカフェ、フィギュアなどを見ていると、永遠に満たされない様式の美を追求している。
擬似恋愛が成立し、ルールがある。個人的には嫌だが。科学技術を突出させていくためには反自然的な行為に走
るかもしれない。でもこの考え方だとシンパシーが生まれる。だからみんな携帯を使うんだろう。アキバで歩い
ているオタクたちの姿は公家に似ているよ(笑)。きっと10年後、20年後は、オタクが公家的な階層を形成する
かもしれない。自分は見たくないけどね(笑)。
劇場版Ζまとめ職人さん、ありがとうございます。
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